こんにちはyazohchiです。
世界ふしぎ発見では、日光を大人気の観光地にした外交官、アイヌ民族の記録を残した冒険家が紹介されます。
日光を大人気の観光地にした外交官、アイヌ民族の記録を残した冒険家は誰なのでしょうか?
皆さん一緒に確認してみましょう!
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日光を大人気の観光地にした外交官はアーネスト・サトウ
日光を大人気の観光地にした外交官は、幕末から明治にかけて日本で活躍したアーネスト・サトウというイギリス人外交官です。
アーネスト・サトウは、1862年に来日。来日直後に生麦事件(薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件)があり、生麦事件以降の交渉通訳を務めました。
時代は幕末から明治となり、アーネスト・サトウは、1872年に奥日光を初訪問しました。 アーネスト・サトウは、奥日光にある中禅寺湖をとても気に入り、個人別荘を建てるほど入れ込みました。
下の画像は、アーネスト・サトウの個人別荘です(1896年建築)。現在は「英国大使館別荘記念公園」という名で一般公開されています。
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奥日光(中禅寺湖)の美しさ・素晴らしさが十分すぎるくらい伝わる景色ですね。アーネスト・サトウが「ビューティフル!(とおそらく言ったのでしょう)」とほれ込んだのもわかるような気がします。個人的に一度足を運んで景色をじっくり眺めながらコーヒーでも飲んでくつろいでみたいものです。
ちなみに、アーネスト・サトウの「サトウ」は「佐藤」ではありません。ドイツ人の父とイギリス人の母のもとに生まれた白人なので、日本人の血は入っていません。「サトウ」の英語のつづりは「Satow」となります。
アイヌ民族の記録を残した冒険家は松浦武四郎
アイヌ民族の記録を残した冒険家は、松浦武四郎です。
1818年生まれの松浦武四郎 は、28歳のころ蝦夷地(現・北海道)へ行き10年以上の間、6回の現地調査を実施しました。 松浦武四郎は、地名、地形、人口、歴史等を調べ、民間伝承を聞き取るなどの調査等も精力的に行いました。 松浦武四郎は、蝦夷地で実施したさまざまな調査をもとに『初航蝦夷日誌』『再航蝦夷日誌』などの地誌、『石狩日誌』『唐太日誌』等の今でいうところの旅行ガイドブック、蝦夷地地図などたくさんの書を著し世の中に広めました。これら一連の松浦武四郎の著作物は、 アイヌ語地名の研究を行う際のベーシックな文献として非常に重要視されています。
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文献の中には、わかりやすく図解で示されているものもあるようで、アイヌ民族の当時の生活様式、慣習などが一目瞭然で分かるよう構成されているところが好奇心をかきたてられます。個人的には、アイヌ民族に関して興味を持った時期があり、何年か前には1人で北海道のアイヌ民族資料館などを渡り歩いたこともあります。アイヌ民族について今再び関心が沸き起こっているところです。
松浦武四郎「北海道」の名付け親
ちなみに、蝦夷地を北海道と名付けたのも、 松浦武四郎なんです。日本人の常識として絶対におさえておく必要があるでしょう。
当初は「北加伊道」でした。「加伊」は、アイヌ語で人間を意味する「カイノー」が由来だそうです。「北加伊道」は「北の壮大な大地に住んでいる人々の国」といった意味で、 松浦武四郎がアイヌ民族に対して尊敬の念を抱いていたことがうかがえます。明治になってから「加伊」が「海」に改められ、「北海道」となりました。
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日光を大人気の観光地にした外交官、アイヌ民族の記録を残した冒険家まとめ
- 世界ふしぎ発見では、日光を大人気の観光地にした外交官、アイヌ民族の記録を残した冒険家が紹介されます
- 日光を大人気の観光地にした外交官は、アーネスト・サトウというイギリス人外交官です
- アーネスト・サトウは、1872年に奥日光を初訪問しました。 アーネスト・サトウは、中禅寺湖のある奥日光をとても気に入り、個人別荘を建てるほど入れ込みました
- アイヌ民族の記録を残した冒険家は、松浦武四郎です
- 松浦武四郎は、蝦夷地で実施した調査をもとに『初航蝦夷日誌』『再航蝦夷日誌』などの地誌、『石狩日誌』『唐太日誌』等の今でいうところの旅行ガイドブック、蝦夷地地図等たくさんの書を著しました。松浦武四郎の著作物は、アイヌ語地名の研究を行う際のベーシックな文献として非常に重要視されています
アーネスト・サトウ、 松浦武四郎の二人は、日本の近代史を語るうえで外せない重要人物ですね。
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